はじめに............

.....冷静に予測しておかなければならないことがある............

フクシマ原発事故発生から

1年9ヶ月後,

二〇一二年十二月一四日に、

福島県に

国連のIAEA(国際原子力機関)が

乗りこんできて、

「原子力安全に関する福島閣僚会議」が

開催されることになった。

 

驚いて

危機感にとらわれた

福島県民が、

私に

「県内ではすさまじい

”安全キャンペーン”

がおこなわれているので、

IAEA

ICRP

(国際放射線防護委員会)

の正体を話してほしい」

という要望があった。

 

それに応えて、

福島県郡山市で

講演会に臨み、

本書の内容を語ったことがある。

 

 そのように

追いつめられた

福島県民の

肉体に迫る

危険性は、

報道界では

切り捨てられており、

大変に切迫した状況に

置かれている。

 

しかし、

福島県民だけでなく、

今こそ、

被バク渦中にある東京を含む

すべての日本人が、

本書に述べる

”悲惨な被バク者の告発”

に、

目と耳を向けるべき時だ

と痛感して

本書を執筆することにした。

 

なぜなら、

全世界に

「われわれはだまされて苦しんだ。

あなたたちが、

決して同じようにだまされてはならない!」

と、

悲痛な声で警告する

”読者の知らない人たち”

がいて、

日本に住むすべての人に、

危険性を

生々しく伝えているからである。

 

本書では、

その数々の実害を、

現在の東京を含む

東日本地帯と

比較しながら、

これから日本で

何か起こるかを

予測してゆきたい。

 はっきり言えば、

数々の身体異常と、

白血病を含む

「癌の大量発生」、

である。

 

 これらの病気が、

幼い世代の子供、

青少年から早く発症することは、

現在では誰でも知っている。

 

 福島第一原発3号機では、

その癌の原因となる

最大の猛毒物

プルトニウムのMOX燃料を

使って運転していたが、

これが爆発して

空高く燃料を噴き上げ、

アメリカのロッキー山脈にまで

プルトニウムが到達していたのだ。

 

というのは、

「化学便覧 基礎編 改訂5版」

(2004年、日本化学会編、丸善)

によれば、

プルトニウムが

ガス化する温度(沸点)は

3232℃だが、

茨城県つくば市の気象庁気象研究所で、

それよりはるかに高い

沸点4877℃の

テクネチウムが

検出されていたのだから

プルトニウムがガス化していた

ことは間違いないのである。

 

 実は、

フクシマ原発事故が起こって

ほぼ2週間後の

二〇一一年三月三〇日、

ヨーロッパ議会によって設置された

調査グループ.

「ヨーロッパ放射線リスク委員会」

(ECRR;European Committee Radiation Risk)

が、公式発表から得たデータを使用して、

フクシマ原発事故によって

東日本地域で

今後発症すると予想される

癌患者の増加数を

発表していたのである。

その予測では、

福島第一原発から

100キ口圏内では、

今後50年間で

19万1986人が癌を発症し、

 そのうち半数以上の10万3329人が

今後10年間で癌を発症する。

 

それより遠い100~200キ口圏内では、

今後50年間で

22万4623人が

癌を発症し、

そのうち半数以上の12万894人が

今後10年間で癌を発症する。

 

 その予測の信憑性を

信じない人がいると思うので、

ECRRについて説明しておこう。

 

一九九七年に

ヨーロッパ議会が

開催したブリュッセル会議の議決にのっとって

設立された組織が

ECRRであり、

単なる市民団体ではない。

 

ECRR初代議長をつとめた

イギリスーオックスフォード大学の

女医アリス・スチュワート博士は、

癌や白血病になった10歳未満の幼児を調べ、

その親がX線撮影を受けていた回数を突き止め、

「妊娠中の女性のX線撮影が

胎児の癌の発生率を高めている」

という衝撃的な

統計を、

世界で初めて明らかにした。

 

かくして

「妊婦のX線撮影禁止」

という現代医学界の常識を確立した人

である。

 

一九七〇年代から、

当時医学に従事していた私にとって、

”放射線と放射能”の

危険性を

初めて教えてくれたのが、

彼女であった。

 

ヨーロッパのなかで

放射能被害、

特に内部被曝について

くわしいこの科学者グループ

ECRRの特徴は、

原子力学界によくいる。

 

放射線の

”机上理論を振り回す学者”

と違って、

”過去の実害(病気)の調査”

に基づいて

放射能被害の推定をおこなう

医学的な姿勢

にある。

その点で、私は誰よりもこのグループを信頼してきた。 そのECRRが、

日本における高い人口密度を考えれば、

200キ口圏内では

今後50年間で

およそ40万人以上が

「フクシマ原発事故による放射能によって」

癌になる。

そして200キロを超える地方も

グレーゾーンであるから、

細心の注意が必要である、

と日本人に甚大な警告を与えたのだ。

 

 したがって、

福島第一原発からおよそ300キロ圏内の

人間の居住地域

(福島県・宮城県・山形県・群馬県・栃木県・茨城県・埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県)

の全域で、

 

そして

岩手県・青森県・秋田県・静岡県・

...山梨県・長野県・新潟県

の一部で、

悲惨な放射能大災害が、

個人差はあっても、

人間の体内で進行している

ことは間違いない。

 

それを実証するように、

いま福島県内では、

 

18歳以下の甲状腺癌の発生率が、

のちにくわしく述べるように、

 

すでに

平常値の70倍を超える

膨大な数に達しているのだ。

 

 しかし本書の結論を最初に言うなら、

その福島県だけではなく、

 

「東京を含めた

東日本全域で

急いで適切な対策をとらなければ

大変な事態を招く」、

このことは、

確信を持って言えること

である。

 

だが勿論、

本書を読みはじめたばかりの

読者は

それを信じないはずだ。

 

 なぜなら、

国連のIAEA(国際原子力機関)が

それを全否定し、

また

ICRP(国際放射線防護委員会)の

安全基準値が、

被害発生を

何度も否定してきた。

「フクシマも日本も

安全である」と……

 

 そして日本のマスメディアが、テレビと新聞を挙げて、これらを「公式見解」として引用し、日本政府と声を揃えて、フクシマ被害地の安全性を喧伝してきたからである。ところがIAEAとICRPの発言には、何の医学的・科学的な根拠もないのである。 彼らは、きわめて危険なフクシマの汚染地帯への住民の帰還を促しているが、それには理由がある。日本政府や東京電力と手を結んで、被害者に支払わなければならない原子力産業の莫大な賠償金を極カゼロに近づけること、つまり「金目」が目的だからである。そしてIAEAとICRPは、過去に大量の放射能大災害を生み出してきた組織だったのである。したがってIAEAとICRPが放射能大災害の発現を”否定”すれば”否定”するほど、被害は、日本人全体の肉体に間近に迫っている医学的に動かし難い実害であるという近未来の姿が浮上してくる。読者に、その厳しい「今から5年後、10年後、20年後の現実」を、自分と、自分の家族の肉体を襲う問題として、強く認識してもらわなければならない。 その理由を知るためには、放射能の危険性が明らかにされてきた史実を、正しく理解してもらう必要がある。 だがその前に、知性ある賢明なる読者は、福島県の見識ある私の友人・知人たちが鬼のようにおそれ、日本政府と連携して活動するIAEAとICRPが、そもそも一体何者であるかをど存知だろうか?と。 実は、このストーリーの正体がすべて、歴史の中に、この危険物を”安全”だと叫び続けてきた。そして今も”安全”だと叫んでいる

..悪魔が潜んでいるのである…多くの人が、この問題を、医学だけで議論しようとしているが、それでは、本当の答が得られない。最初にはっきり、本書の結論を言えば、「IAEAとICRPは、軍人と軍需産業によって生み出された原子力産業の一組織であり、彼らの定める”安全”基準値は、医学とは無関係である」のだ。 つまり、”戦争と原水爆”がこの最大の原因なのである。この「危険な安全基準値」は、実に数十年にわたって準備されてきたのである。 この史実を知って、あなたはどう考えるか。大量の放射能被バク者が生まれても、その実害の悲劇が闇に葬られるという道理には、誰でも気づくはずだ。放置すれば、「東京が壊滅する日」は間近に迫ってくる。だからこそ、本書を最後まで読んでいただく必要がある。 このすぐあとの第1章で述べる大規模な癌発生事件と、ほぼ同じ悲劇が、一見すると平和な日本、東京を含む東日本全域で起こりつつある。その被害地帯は、近年数々の報告が出されてきた「チェルノブイリ原発事故」のウクライナ、ベラルーシの放射能汚染地帯ではないI フクシマ原発事故の被害地である東日本とほぼ同じ量の放射能を浴びた「アメリカ西部三州の汚染地帯」で起こった出来事だ。しかもその汚染地帯の広さは、ちょうど日本全土の広さとほぼ同じであった。その大規模な癌発生は、アメリカでは5年後ぐらいから目に見えてきたのだ! だが、その前の4年間に、内臓と神経に、多くの人に体の不調がはじまっている。アメリカ西部三州と日本の同一縮尺地図アメリカで大問題となったのは実に20年後であった。したがって、フクシマ事故から4年を過ぎた現在の日本は、体内に時限爆弾をかかえた「....の潜伏期」にあるのである。 日本全土の大きさと、放射能大被害を受けたアメリカ西部三州の大きさを、同じ縮尺で示すと、上の地図のようになる。 事実を見ることが大切だ。つまり、決して驚いてはいけないが、「現在の東日本全域とほとんど同じ条件に置かれていたアメリカの西部三州で」、以下のような史実があったのである……目次.......はじめに冷静に予測しておかなければならないことがある 2.......第I章日本人の体内でお七るべきことが進行している!............セントンヨ九ンで起こった恐怖の事件 .......パズルを解いた男ポール・クーパー元軍曹 

.............原爆の閃光だけが原因ではなかった 32...................福島第一原発事故では、どれはどの放射能が放出されたか 39...............フクシマ原発事故が起こった 山下俊一と長瀧重信と一番弟子・高村昇 斜第2章なぜ、本当の事実が一次々と闇に葬り去られるのか?..................放射性物質が持つ長期性と濃縮性 64...........知られざる内部被バク問題 67..................20年で100倍に激増した自然界の放射能 72..................食品は大丈夫なのか 76......................中国が日本の10都県の全食品を輸入停止I』79..............次から次へと闇に葬られた科学者と、福島県の「甲状腺癌」72倍のデータ 83...................第3章自然界の地形がどのように被害をもたら寸か................ネバダ核実験による映画人の被害者 収一被バク者として選ばれた人びと 100............安倍晋三の長州藩歴代犯罪の系譜 102....................山間部に降り積もり、東京湾に流れこんだ死の灰 109..............カリフォルニア州の大都会でも大被賓が¶・-―映画スターはなぜ死んだか 112.......................20年以上苦しむ、ネバダ核実験の住民被害煮が訴訟を起こした m.................すべての被害を予測していたAEC(原子力エネルギー委員会) 125................日本の御用学者、中川恵一と山下俊一 130.............第4章世界的なウラン産業の誕生....................放射線・放射能の危険性は、どのようにして明らかになったか 06................×線の発見と知られざるエジソンの素顔 139................モルガン財閥がエジソンを育て、GEを生み出す ㈲............................ヨーロッパでキュリー夫人をロスチャイルド家が育てる................夜光塗料が女工を被曝させ、ICRPの母体を....生み出す......第5章原爆で巨大な富を独占した地下人脈............原子爆弾のアイデアが誕生した 154・........第二次世界大戦が勃発して、原爆製造計画が始動した.........真珠湾攻撃で一変した全世界 162............、マンハッタン計画゛はいかにしてスタートしたのか 165...............原爆の実験に成功、そしてヒロシマーナガサキ 宍...........なぜ広島・長崎に原爆が投下されたか 175............原爆によって天文学的な利益を得た巨大財閥 179..............日本への原爆投下を勧告した人間は誰だったか .....................146 142............第6章産業界のおぞましい人体実験....................日本敗戦そして東西冷戦の時代から大々的に核実験がスタート 196.......................ABCCによる日本の被バク後遺症の調査がはじまる 202...............ヒロシマーナガサキABCCを受け継いだ日本の原子力第一丁第三世代 205.............................『プルトニウム人体実験』と組織的50万人殺戮計画 209...................ハーヴァード大学でも組織的な人体実験が!・ 215.............第7章国連がソ連を取りこみはじめた....................ソ連の原爆開発を成功させた二重スパイ集団がいた..........................マンハッタン計画を始動させた黒幕の正体 225.....................222................ソ連の犯罪。カチンの森の虐殺・に目をつぶったアメリカ ご........10万の囚人を使ったソ連の原爆開発部隊 235...................”チェリャビンスク40番地”に起こった凄絶な惨劇 237........................ソ連の汚染地帯が現在の日本人に教える4つの危険性...............ICRPが誕生し、放射能の危険性を隠しはじめた..

..いつまで殺人医師のデータに子供たちの生命を賭けるのか......255.........第8章巨悪の本丸「IAEA」の正体............水素爆弾が生まれ、”原子力の平和利用”なる言葉が登場した 258・................ビキニで第五福竜丸が被バクした。水爆マクロ”の恐怖I 261.................世界最初の原子力発電がスタートした 264..................核実験で子供の癌死亡率が6倍に....................ついにIAEA(国際原子力機関).................が266...........................誕生し、WHOを支配した ひ.............日本における被曝隠しの黒幕医療界と七三一部隊 274.....................アメリカの首輪をつけた哀れな使用人たち 283............................身の毛もよだつ放射性廃棄物の被害 286.........................1AEAがチェルノブイリ原発事故で正体を現わし、大被害を隠した.................原爆と同じ、核暴走・でプルトニウムを噴出した福島第一原発3号機.............29年後にも200万人が苦しむチェルノブイリ事故の現実 y....................食品業界のトップがIAEAの正体だった 300.............................原爆と原発は。双子の悪魔” 302...............290....293...........日本の原発からどうやって....................全世界へ原爆材料が流れ出ているのか?..............5兆円をドブに捨てた日本の原発政策 306.........................日本の原発からフランスの核弾頭がつくられる 309...................日本の原発からパキスタンへ原爆材料が流出 312...............オイルショックで原子力発電ブームをまき起こしたフランス.........何もせずに..

..数百億円を日本から盗み取った会社の正体 316...............フランスと一体化したイギリスの原子力産業 ル314...................パキスタン・中国・台湾・韓国・北朝鮮と日本の玉突き現象 323......あとがき 339..............セントージョージで起こった恐怖の事件..........アメリカ合衆国ユタ州の町、セントージョージの葬儀屋エルマー・ピケットは、町の異常.........に気づいていた。それは今を去るほぼ60年前、一九五六年のことだった。それまでは、癌に.よる死亡はごく稀だったが、その年になって突然、癌で死亡する人が増えはじめた。それがただ増えはじめただけでなく、彼の手で埋葬される人がほとんど癌死者になってしまうという、驚くべき変化が起こってきた。まったく信じ難い事態だった。 ルビー・フアイソン夫人は、夫ジョゼフの死について、こう語っている。 「癌で死んでゆく人を見たことがなければ、決して分らないでしょう。あれは、おそろしい死に方でした。最後にジョゼフは、あまりの辛さに自分の手の甲をかきむしり、皮をすっかり剥ぎ取ってしまいました。血だらけになりながら死んでいったのです」翌年の一九五七年になっても、癌死者の洪水は止まらなかった。セントージョージの町に、なにかが起こっているのではないか。一九五八、五九、六〇年……おそるべき事態は続いた。セント・ジョージの癌死亡率は、 セント・ジョージの不幸は、葬儀屋エルマー・ピケツトなく、妹が……姪が……祖母が……4人の伯父が……妻の母が……妻の妹が……伯母が……と、果てしなく死んでいった。それは、すべて癌による不幸だった。そして結局、これまでに彼が失った家族と親類の数は11人にも達している。 エルマー・ピケット自身、甲状腺に障害を来たし、ついに外科手術を受ける日を迎えることになった。 セントージョージの町に住むアーマートマス夫人の場合は、通りを一本へだてた家で、カールとエルニーが癌で死に、カールの妻が発癌していた。 その隣の家では、まだ小さな子供が白血病で死んでいた。 その並びには、トマス夫人の妹が住んでいたが、彼女も乳癌で死に、その夫が発癌していた。 ウィルフォードも癌になっていれば、妻のヘレンも胃癌で死んでいるのだ。 彼女の家の周囲わずか一区画だけで、30人が癌にかかり、

そのうち10人が死亡していた。こうしてトマス夫人が自分のノートに記録し続けてきたセントージョージの癌患者は、一九八〇年頃までに200人にものばった。この200人がすべてトマス夫人の知人だった。なお悲惨なことに、この”不幸なリスト”に書きこまれた名前のうちの半分に、赤いチェックの印が付してある。葬儀屋エルマー・ピケットの干に委ねられ、すでに埋葬された人びとの名前だった。しかしそれは、死亡年齢から見て、いずれも。早すぎた埋葬”に該当する。 ジェフリー・フフッドショウは、25歳の若さで骨盤に癌を生じ、外科手術で牌臓を取られ、脳腫瘍のためにほとんど視力を失っている。 デイヴこアイモシーは18歳の時に、悪性の甲状腺腫瘍を発病し、7回以上もの手術を受けながら、ようやく生きながらえているが……この青年の場合、2人の甥……3人の伯父が癌で死んでいる。デイヴこアイモシーの治療に当たっていた医師2人も、癌のために死亡している。 アーマートマス夫人も、自分の妹と夫の妹が、どちらも癌のために死んでいる。それは一九六四年のことだった。 さらに夫が15年来の癌のため治療を受け、4人の娘のうち2人は子宮癌の疑いから子宮切除の手術を受け、もう1人は三度の流産を体験し、最後のI人が重度の筋肉疾患に苦しんで思い返してみよう。二〇〇一年九月一一日にニューヨークで世界貿易センタービルに航空機が突っこみ、ビル大崩壊事件(9・一一事件)が起こって、全米が衝撃を受けた翌年、一一〇〇二年に厳戒態勢のなかで冬季オリンピックが開催された都市、それがユタ州の州都ソルトレイクシティーである。そのソルトレイクーシティーのユタ大学病院では、ジョゼフ・ライオン博士らが、調査を続けていた。 その調査内容は、”ユタ州の小児ガン”に関する一論文として、ボストン発行の医学誌(The New England Journal of Medicine 一九七九年二月二二日号」に発表された。 ライオン博士らは、顕著な被害の出ているユタ州南西部を中心とする17の郡と、州内のほかの郡について、実に32年間という長い歳月を対象として、15歳以下の小児ガンの発生状態を調べてみたのである。 この連続した32年間を、A、B、Cの三つの期間に分けてみた。 Aは、一九四四~五〇年の7年間, Bは、。九五一~五八年の8年間, Cは、。59年~75年の17年間,

という具合にてある。 このように分けたのは、まん中のBの期間に、ライオン博士らの予測する”不幸の原因”が潜んでいると考えられたからだった。 また、15歳以下の小児を調べてみたのは、その予測される”不幸の原因”が、とくに子供たちの体に対して急速に影響を与えると考えられたからである。成人では、発癌から死に至るまでに十数年という長い歳月を要することもあるが、小児では癌が急速に成長するので、ま被害かおるとすれば短期間に集中し、因果関係を立証しやすいと判断された。この長い年月と、多くの小児を対象とした調査の結果はユタ州全土の親を戦慄させるものとなった。また同時に、B期間の異常性を、数字の上からこれほど的確匹証拠づけたレポートもなかった。そのうちのひとつのデータを、わかりやすい形で表現すると、次のような結果が得られる。 1-白血病をはじめとする小児ガンの発生率は、1年あたりの平均値に換算して、A、B、Cの三期間を比較してみた場合、ユタ州南西部(セントージョージを含む地域)では、 AとCを100%とした時、B期間中にちょうど300%の高い率になる。 これが、冷厳な結果だった。32年の長い歳月にわたる期間にもかかわらず、300%の明白な数字が浮かび上がってきた。 これは統計的な考えだが小児がんのために死んでいった子供たちの一人ずつを親の立場になって考えてみよう。たとえば、これはその中のわずかI例にすぎないが、セント・ジョージからすぐ近くの町、シーダー・シティーに住んでいたシビルージョンソンという女の子の場合、父親プレーンージョンソンはシビルの白血病を医師から宣告された時、「私の家から、たった100メートルの範囲内に、7人もの白血病患者が出ているのは、単なる偶然のほかに、何か別の原因があるのではないでしょうか」と、医師に尋ねた。 しかし医師は、あくまで偶然だと言い張り、彼の疑問を認めようとしなかった。 そこで彼の妻は、手当たり次第に一帯の調査をはじめてみた。その結果、ついに100人にものぼる癌患者のリストができてしまった。これが統計的な調査ではなく、ジョンソン夫人がたまたま知ることのできた人たちの人名録だった、という点が大切である。氷山の一角が見えたにすぎない。少女シビル・ジョンソンが白血病のためこの世を去っていったのは、一九六五年であった。 セント・ジョージに往むシェルドン・ジョンソンは、

息子のレインを愛し、楽しい家庭を築いていた。そのシェルドンージョンソンはある時、ふと疑問を抱いた。しかし、レインのほかにも、学校のひとつのクラスに、知恵遅れの子供がこんなにたくさんいるのは、なぜだろうーと。 以前には、知恵遅れの子が一人もいなかったことを考え合わせながら、この親はやがて、ひとつの事実に気づいたのだった。 この子たちはみな、一九五二ー五七年の間に生まれたのだIということをI これと同じ事実を、葬儀屋エルマー・ピケットも認めていた。 この町の人間は、あの時が来るまではみんな元気で、癌になる者なんか、捜しても見つからなかったのだ-と。 すでに説明したジョゼフ・ライオン博士の論文がB期間として設定したのは、一九五一~五八年たった。多くの障害児が出生した期間は、ちょうどこのB期間のなかに、すっぽり入ってしまう。小児ガンの発生率増加とのあいだに、明瞭な相関性がみられる。これで謎ときの大きな手掛りが、四つまで明らかにされたことになる。第一は、被害者―小児から成人に至る膨大な数の人間第二期間ー千九百五十年代第三は、位置-―‐‐‐‐-‐ユタ州セントこソヨージの周辺第四は、被害‐‐‐‐‐―‐‐小児ガン、小児白血病、成人の発癌、癌死の激増だれが(WHO)、いつ(WHEN)、どこで(WHERE)、なにを(WHAT)、といういう順序で考えるなら第五のいかにして(how)というパズルの答えを出さなければならない。...........パズルを解いた男ポール・クーパー元軍曹..........自ら白血病におかされながら、このパズルを解いてみせた男がいる。アメリカ陸軍でかつて軍曹をつとめたポールークーパーだった。一九七六年、ソルトレイクーシティーにある退役軍人を扱う病院が、ポール・クーパ元軍曹の白血病を知り、ひとつの疑いを抱いた。 葬儀屋エルマー・ピケットが”セント・ジョージ”の一集団について疑念を抱いたと同様に、すでにユタ州の人びとが口にしていた噂から、この軍人病院の疫学者グリーンーコードウェルは”退役軍人”の一集団匹不審を感じたのだった。 ここで重要なことは、セントージョージの住民が、実は無関係の巻き添えを食った被害者だったのに対し、軍人病院の場合には彼ら自身がこの問題の当事者だった、という点にある。答を明かせば、軍人が加害者だった。その加害者自身のかかに、ポールークーパーという.

被害者が出はじめたことによって、ようやく、軍人が自分からの過去を洗い出してみようという気になったのだった。反骨精神を持ったポール・クーパー元軍曹が、ユタ州ソルトレイクーシティーの病院で診察を受けたことも、パズルを解く鍵になった。これによって、やがてユタ州セントージョージの被害が、クーパーらの軍人が受けた被害と結びつけられるようになったからである。実は、クーパーが登場するずっと以前から、あちこちで結びつきが語られ、被害者は確信をつかんでいた。 ポール・ジェイコブスという一匹狼のジャーナリストは、B期間中に自分の足でユタ州南部を歩きまわり、住民と起居を共にしながら、子供たちの白血病をはじめとするさまざまの被害を調べあげた。それを”ザ・リポーター”という雑誌(一九五七年五月一六日号)にくわしく報告し、のちには彼自身の体も癌におかされ、59歳で死んでいった。一九五七年という早い時期にポールージェイコブスが伝えた事実は、エルマー・ピケットやアーマートマス夫人がのちにくわしく知った出来事を、すべて予言したものであった。だがそれらはどれも、公式の手続きにかけられると、”噂にすぎない”と一蹴され、涙を呑んでいた。 ポール・クーパーは立ち上がり、ついにマスコミに対して宣言した。「私は一九五七年のネバダの核実験に参加したために、白血病になったのだ。間違いない」核実験に参加して20年後、一九七七年四月のことだった。ポール・ジェイコブスの警告にもかかわらず、ポール・クーパーはネバダの核実験に参加した。写真は1957年5月28日の原爆 -クーパーはこのシリーズのテストに立ち会ったパズルは解かれ始めた。 すでにこの時、ソルトレイク・シティーの軍人病院は、全国に散らばっている何千人にものぼる退役軍人の体調を調べ、白血病のおそるべき倍増を実証していた。ポールークーパーに続く者が全米でつぎつぎに名乗りをあげけじめ、モヤモヤしていたものが一挙に吹き飛ばされた。 ポールークーパーは、かつてベトナムの戦線で”グリーンーペレー”として活躍した、優秀な落下傘部隊の軍曹だった。このグリーンーペレー隊員が、。正義の国アメリカ”を敵にまわして戦いを挑かには、世論の助けが必要であった。 クーパーが立ち上がった行動は、ビートルズのジョンーレノン、女優のジェーンーフォンダ、フォーク歌手のジョーン・バエズらを.

..ひとつのシンボルとして、大衆が反戦デモをくり広げた時代の流れの線上にあった。戦場から帰還したアメリカ兵士たちがベトナムでの自らの戦争犯罪を続々と告発し、ニクソン大統領が辞任に追いこまれたウォーターゲート事件によってホワイトハウスの威信が失墜し、ついにベトナムのサイゴンが陥落した時代だ。 こうしてクーパーは、現実に合衆国をゆるがしていた反戦、反軍部の空気のなかで、見えない支持を受けながら、かつて自分か忠誠を捧げていた軍部に、反旗をひるがえしたのである。さらに皮肉なことに、ウォーターゲート事件で”人の秘密を盗みとる”スキャンダルを暴露されたニクソン本人が、大統領就任の翌年(一九七〇年)に、それまでは最高機密《トップーシークレット)扱いにしてきた原水爆関係の国家資料を、かなりの範囲にわたって公開できるようにしていた。 クーパーらの調査活動は、この機密公開によって大いに助けられた。 ところが現在の日本では、二〇「三年一二月六日、国民の誰もが望む情報公開の時代に逆行して「特定秘密保護法」なる悪法が国会で成立してしまい、一年後の二〇一四年末までに、20万件近くの文書や画像が秘密指定され、原子力や軍事に関する膨大な事実資料が、国民の前に隠される異常事態を招いている。加えて、二〇一五年には、元通産(経産)官僚の古賀茂明氏がテレビ朝日の”報道ステーション”で「反・安倍晋三の意志」を明らかにした直後から、古賀氏とテレビ朝日には日本政府から圧力が加えられ、四月一七日には、自民党がテレビ朝日の幹部を呼んで事情徴収を行うという前代未聞の放送弾圧がスタートしたのだ。あたかも、戦時中に大本営の軍部によって報道界が何も言えなくなったファシズム時代を彷彿とさせる危機的な状況にある。では、このように政府によってフクシマ原発事故の大被害の事実が次々と隠されつつあり、亡国に向かっている日本に対して、ポール・クーパーと、セント・ジョージの住民たちは、どのようにして、ネバダ核実験の被害をアメリカ国民に伝えることができたのであろうか。 実は、B期間直前の一九四九年に、ソ連が原爆実験に成功し、翌一九五〇年に朝鮮戦争が勃発して米ソの衷西対立が顕著になったあと、国防総省(ペンタゴン)の原子力兵士(アトミックーソルジャー)と呼ばれた彼らは、目の前に迫ってきたソ連との原爆世界大戦にそなえて、西部ネバダ州の.

核実験場にがり集められた。 砂漠に塹壕を掘り、そのなかに身を隠して待機している。すると飛行機が姿をあらわし、なにかを落としてゆく。まばゆい閃光が走る。爆風のため塹壕に叩きつけられ、ただちに銃をかついで外にとび出すと、空にキノコ雲が立ちのぼっている。まだ激しく吹きあれる爆風に身をさらしながら、爆音に耳をふさぐ。 突撃の命令を受け、爆心地に向かって疾走する。そこには傷ついたソヴィエト兵が生き残っているはずだ。殲滅しろ。 銃を乱射しながら、どこまでも突進する。これが原爆戦の訓練だった。この核実験に参加した兵士の数は25万人にのばった。 この兵士たちが、やがて自分の体に異常をみつけ、その原因が核実験にあったと気づいた時、彼らは国家に裏切られたことを知った。怒りをおさえることができず、ペンタゴンをのろった。彼らは”アトミック・ソルジャー”として世に現われ、貴重な発言をするようになっていた。 だが、アトミック・ソルジャーは”死出の兵士”だった。クーパー自身の体は、彼が訓練に参加した一九五七年の原爆実験からい11年目に、白血病の兆候を示しはじめた。それからの8年の歳月はほとんど病気との闘いに費やされ、一九七六年にソルトレイクーシティーの病院がその症例に注目した時すでに、彼の体は病魔にむしばまれる末期的段階に入っていた。一時、白血球がゼロになる危篤状態を迎え、次いで、二週間の人事不省におちいり、三度目には体温が41度を超える状態にまで至り、体重がついに50キ口を割った。頭の毛は一本もなくなっていた。痛みは口で言えないほどの極限に達し、そのすべてに元軍曹としての力強い生命力をもって立ち向かったが、一九七七年にマスコミに向かって問題の全貌を明らかにした翌年二月、豺歳の若さでこの世を去っていった。体重90キロ近い巨体が、半分以下の40キロ近くまで痩せていた。それでも、このわずか二年あまりの短い期間に三度の危篤状態を乗り越えながら、ナンシ 誰もが実証して欲しかったダブル最後の鍵。いかにして(HOWブという第五の答は、クーパーの口からさまざまに語られた。しかし、ポールークーパーがパズルの答を実証するには、自分自身の”白血病死亡証明書”を最期に添付しなければならなかったのである. 葬儀の時、トランペットが吹奏された。このあと、軍人が星条旗をおるし、四つに折り畳んでナンシー未亡人に手渡そうとした。

だが彼女は、アメリカ合衆国の国旗を受け取ることを拒否したのである。その拒否は、力強いものではなく、いまにも地面にくずおれ、泣き伏してしまいそうな、悲しみに満ちた拒絶だった。 一九八一年までの調査では、クーパーが参加した核実験(”スモーキー”と名付けられた原爆の実験)に立ち会った兵士の白血病発症率は、通常に比べて、338‰を超えるところまで確認された。さらに、彼らの子供に対するさまざまな影響も、50%の高い割合で生じていた。アトミック・ソルジヤー・ジュニアにまで、問題が引き継がれていたのである。火の玉を見る原爆実験に立ち会った兵士と、フクシマ原発事故の被バク者は違うはずだ、と読者は考えるに違いない。ところがセント・ジョージ住民を襲った原爆実験の死の灰も、フクシマ原発事故で放出された放射性ガスも、200種類以上の「同じ放射性物質」である。(本書では、原水爆やX線を含めて、人体の外部から放射線を浴びる「外部被爆・外部被曝」と、放射性物質を体内に取りこんだ時の「内部被曝」のすべてを総称する場合、「被バク」と表記する。) このアメリカの大被害が、フクシマ原発事故のおそるべき正体を、これから両者を対比して示すように、数字で実証していたのである。クーパーの死後も続けられてきたこの謎解きによって明らかにされてきた事実は、次のようなものであった。【ネバダでおこなわれた大気中の核実験】(公表されたもの) 一九五一年  大11回   垂一年  8回   五三年  n回   五四年  o回   五五年  16回   五六年  ―回    五七年  26回    五八年  24回  合計97回 これで明らかな通り、さきほど述べたユタ大学医学部のジョゼフ・ライオン博士らが設定したB期間とは、この一九五一~五八年にわたる8年間であった。 原爆の閃光だけが原因ではなかった 大被害を受けたユタ州セントージョージの町がネバダ州の核実験場から220キロの距離にあることを、ここで明らかにしておかなければならない。ネバダ州の隣がユク州だからといって、この距離は、決して近いものではない。わが国に置き換えてみれば、ほとんど東京駅~名古屋駅開の250キロに匹敵する距離である。 ネバダの核実験場とセントージョージは、むしろ非常に遠い、と言ってもよい。 つまり、セントージョージの住民は、原爆実験に立ち会った

アトミックーツルジャーのように閃光を浴びたのではなく、原爆が作裂して放出されただ死の灰”と呼ばれる放射性物質が220キロの距離を飛んで、それを浴び、体内に取りこんだ結果、大量の癌患者を発生したのであった。それは、フクシマ原発事故で放出された放射性物質を体内に取りこんだ東京を含む東日本の住民と同じである。 そして、福島第一原発から東京駅までの距離が、ちょうど220キロである。 福島第一原発から岩手県釜石までの距離が、ちょうど220キロである。 ヨーロッパの科学者グループ「ヨ―ロッパ放射線リスク委員会」(ECRR)が大量の癌発生を予測した範囲がこれとほぼおなじである。 もうひとつ重要な事実は、これらのネベダでおこなわれた”大気中”核実験が、原爆を使ったものであって(水爆ではない、その爆発力は、ヒロシマ原爆の15キロトン、ナガサキ原爆の22キロトンに対して、桁違いに大きいものではない、という点てある。 このキロトンという単位を説明しておこう。ウラン235「1キログラム」が核分裂して出すエネルギーは、TNT火薬(トリニトロトルエン)「Iキログラム」が爆発熱として放出するエネルギーのおよそ2000万倍である。つまりTNT火薬の重量2000万キログラム、およそ20キロトン分である。このように個々の原水爆の威力は、TNT火薬に換算して、キロトン(1000トン)単位言ポされる。ヒロシマーナガサキ原爆で実際に核分裂したウランやプルトニウムの爆発力については、いくつかの異なる推定値が出されているが、実際に核分裂した量は、ヒロシマ原爆では750~800グラム(およそIキログラム)のウラン、ナガサキ原爆では0 ぼ1キログラムのプルトニウム、と推定されている。その数字から換算して、本書ではアメリカ政府が発表している前記の数字、ヒロシマ15キロトンとナガサキ22キロトンを使う。これに対して、わが国で標準的な10旦力キロワット出力の原発では、わずか一目で3キログラムのウランが核分裂する。したがって、ヒロシマ級原爆が毎日3発分以上も、原子炉のなかで爆発する勘定になる。すなわち1年間365日運転すると、およそ原爆1000発分の。死の灰々が生産される。それが、フクシマ原発からドッと放出されたものだ。ネバダの原爆実験では、われわれ日本人に理解できる感覚で全体を示すと、「ヒロシマとナガサキ投下原爆」の

合計37キロトン分か、このB期間の8年間で0 ぼ27回現出したことになる。地上に降り注いだ放射能の量で比較すると、ネバダの大気中核実験に比べて、日本のフクシマ原発のほうが2割多いのである! この計算は、次の項でくわしく説明する。これらの原爆には、それぞれ愛称があった。 ヒロシマに投下された原爆は。リトルーボーイ”(小さな少年)、ナガサキの原爆が”フアット・マン”(太った男)である。さらにミ不バダや南太平洋などでテストされた原水爆の愛称を一部紹介すると、〃イージー”、”シュガー””ヤンキーヘ時には科学者の名をとってごIユートンヘ”フランクリンヘ”ケプラーヘ立目楽的ネーミングプナヤールストンヘゴアキシー″から、しまいには乙フラヴォーヘ”アンコールヘ”クライマックス”まで揃っていた。 この核実験シリ~スを開始するちょうど前の年(一九五〇年)、全米のトップーレペルの学者が集まって出した結論は、この愛称にあらわれているような。イージー”な感覚から出た、「何だ、思うほど大したことはない」だったのである。 そのとき、原爆開発者のエンリコーフェルミ博士、エドワードニアラー博士など、世界最高頭脳が集結し、周辺の住民や兵士が受ける放射能の量が科学的に計算され論じられたー ......安全か......危険か.....議論は白熱した。......「危険の可能性はある。しかしそれは人間が死ぬという危険性ではない。医学的に”絶対安全”とされている量より、わずかに上回る放射線を浴びるかも知れない、という危険にすぎない」  これが彼らの結論だった。 これは、フクシマ原発事故で被曝した日本人が聞かされてきた言葉と、まったく同じだ。 かくして一九五一年」月二七日に、第一発目の原爆が、ネバダの砂漠にキノコ雲を立ち昇らせた。第二発、第三発、第四発……そしてナガサキ級の第五発目へと、日を替えて実験がおこだわれた。周辺では、あちこちで放射能が正確に測定され、作業員たちの被バク量も記録され続けた。その結果、合計被バク量が一番大きな作業員でさえ、3レントゲン程度にすぎなかったという。 当時は、被バク量をこのようにレントゲンという単位で表わしていた。だが、現在の被バク量の表現では、シーベルト、あるいはその”1000分の1”のミリシーベルトや、〃100万分の1”のマイクロシーベルトという単位を使い、ICRP.

(国際放射線防護委員会)の定めた基準では、一般市民の一年間の被バク限度がIミリシーベルトとされている。○放射能・放射線の単位の換算表放射能(放射性物質が持つnヽる放射能) 1キュリー(Ci)=370億ベクレル(Bq) =3.7×10'°ベクレル(Bq)照射線量(空気中における換算) 1レントゲン(R)=8.7ミリグレイ(mGy) =0.0087グレイ(Gy)線量当量=空間線量=被バク線量 (吸収線量を全身で合計した被バク量)  1シーベルト(Sv)=100レム(rem)  =1000ミリシーベルト(mSv) =1,000,000マイクロシーベルト(μSv)  1μSv/時×8.76 =mSv/年(1年は8760時間なので)吸収線量(放射線が生物の各部位に吸収されたエネルギー) 1グレイ(Gy)=100ラド(rad) ここに示した「放射能・放射線の単位の換算表」のように、レントゲンとシーベルトは次元の異なる放射能単位なので単純には換算できない。そこで、全身被バクの致死量が8プレイおよび6~7シーベルトであるという数字を使って換算すると、作業員が浴びた3レントゲンは、およそ19~99一ミリシーベルトになる。一九五○年代当時の原爆実験作業員の被バク量は、「彼ら専門家によれば」、ぶ取大でも20ミリシーベルト程度”であった、ということになる。こうして大小さまざまの原爆がテストされ、兵士は核戦争に備えて砂漠での実習訓練を受けることになった。勿論、兵上たちの被バク量もすべて記録されたが、現在の単位に換算して8・O~9・5ミリシーベルトというわずかなものだったという。兵兵士たちは危険な量を被曝しないよう、入れ代わり立ち代わり別の部隊がこの実習訓練に参加した。ところが現在の福島県内では、危険とされた避難地域に帰還できる放射線量を、年間20ミリシーペルト以下としているのだ。 ネバダの核実験に狩り出された兵上が大量に癌患者を生み出した被バク量8・O~9・5ミリシーベルトに比べて、福島県内で帰還が許されている被バク量がその2倍以上で、大丈夫だと思う人がいるだろうか? ネバダの砂漠は活発に爆音を轟かせ、二〇秒ほど経ってから、この震動が220手口離れたセントージョージの住民の体にも感じられたが、彼らの飾りない言葉によって説明されるこの実験の恐怖は、さきほどのようなネバダでは合計97発の.

.原爆実験がおこなわれた」といっか表現では、到底理解できないものだった。数字を合計する必要はない。それぞれの一発が、とてつもないエネルギーを放出した。 その一発一発に、近隣住民の強い関心を呼び起こしながら、核爆発のテストは続行されていった。 だが、ネバダ、ユタ、アリゾナの西部三州では、やがて原爆そのものを見聞きする好奇心の段階を通りすぎ、薄気味の悪い事件がここかしこで風の便りに乗って聞かれる時期に突入していった。”汚れた雲が通ったあと、髪がごっそり抜け落ちた” ”肌に奇妙な日焼けができた” ”家畜が五〇〇頭死んだ””いや、うちでは羊が一五〇〇頭死んだ” ”生まれた仔羊はどれも、脚が異様に短かった” 。子供たちがつぎつぎと白血病にかかっている” ”セント・ジョージで目のない赤ちゃんが生まれた” ”ネバダでも、目のない赤ちゃんが生まれた” ”井戸水がホコリをかぶったように汚れている” ”うちの女房がまた流産した” ”子供たちの甲状腺異常が増えている” ”ご葬儀屋ピケットが癌のため繁盛している” ”セント・ジョージ近くで映画を撮影したロケ隊は大丈夫なのか” しかも不幸なことに、これらがすべて単なる伝聞でなく、事実起こったことだった。 一九五七年には、ポール・クーパー軍曹の参加した”スモーキー”実験も含めて26回と、テストはこれまで最大の規模にまでエスカレートした。 ポールークーパー元軍曹がぶちまけた”スモーキー”の惨劇から、こうしてわれわれは、あらゆる出来事がいかにして起こったか、その脈絡を調べられるようにだったのである。 これに続く一九五八年をもって、ネバダの大気中の原爆実験シリーズ  B期間ーは一応完了し、そのあとは、3年後の一九六一年からはじまる地下核実験の新時代に突入した。 では、この大気中の核実験と、フクシマ原発事故で放出された放射能の量を比較してみよう。